旅行記

ベルサイユ宮殿にまつわるお話

フランス旅行の定番のひとつ、ベルサイユ宮殿。この宮殿に関わる人は大変多く、しかも似たような名前ばかりでよく分からなくなります。

フランス旅行をきっかけにベルサイユ宮殿にまつわるお話を纏めてみました!

フランス王家家系図


私のブログを熱心に読んで頂いている方にとっては2度目の登場。フランス王家の家系図です。参考までに。頑張って調べて作りました!

ルイ14世


ベルサイユ宮殿を建てたのは太陽王として非常に有名なルイ14世です。ちなみに、この太陽王というあだ名ですが、ルイ14世が14歳の時、バレエの演題で太陽神アポロンを演じた際、全身太陽の衣装を着てバレエを踊ったことが由来だそうです。

ルイ14世が生きたのは17世紀。17世紀は黄金の世紀とも呼ばれています。ルイ14世が才能を発揮して次々と戦争に勝ったため、フランスはどんどんと豊かになっていきます。周囲の領土を侵略し、現在のフランスとほぼ同じ面積まで領土を広げました。王朝の最盛期を築いた王様です。

「朕は国家なり」に代表される絶対王政を敷いた王様です。 晩年は戦争に負けて、フランスがだんだんと困窮していくのですが、偉大な王であることは間違いありません。

ルイ14世は非常に長生きで、77歳まで生きています。国王に着いたのは僅か4歳の時。国王としての在位期間は72年と国家元首としての在位期間が最も長く、ギネス記録に認定されています。

あまりに長寿なため、息子のグラン・ドーファン、孫のブルゴーニュ公よりも長生きしました。このため、次の国王であるルイ15世はルイ14世のひ孫に当たるのです。

ルイ14世はナイフとフォークが嫌いだったようで、左手にスプーンを持ち、右手は三本指の手づかみで食事をしていたようです。給仕係が濡れたタオルを腕に掛け、待機していました。当時の食べ物は野鳥、パン、カブ、豆、菜っ葉など。ルイ14世はグリーンピースが大好きだったようですね。

ルイ14世の頭は20代で頭はツルツル。肖像画はカツラを被った姿です。

おそらくこれは、ルイ14世が極めて“不潔”だったからでしょう。

ルイ14世は生涯で一度しか風呂に入ったことがないそうです。その一回はベルサイユ宮殿唯一のお風呂がオランジェリーにあるようなのですが、そのお風呂で愛人と水遊びをしただけだそう。また、髭もたまに剃る程度で、手や顔もまれにしか洗わなかったようです。これは、 お風呂に入ると毛穴から悪いものがはいるという迷信があったからだそうです。

迷信と言えば当時、古い血が病を引き起こすという迷信があり、1週間に1.5Lもの血液を抜いていたそうです。抜きすぎではあると思いますが、77歳まで生きたことを考えると、血を抜くのは造血機能が活性化されて体に良いのかも知れませんね。

不潔に関することでもう一つ。ベルサイユ宮殿にはトイレが無く、 当時宮殿で働いていた人たちは階段脇のカーテンの陰や庭の片隅で用を足していたようです。宮殿内は排泄物の匂いが充満していたことでしょう。

ルイ15世


王位に就いたときには僅か5歳。在位期間は59年。昭和と同じくらいですね!

多くの愛人をもっており、最愛王と呼ばれています。王妃マリー・レグザンスカとの間には男の子2人、女の子8人の計10人の子供が居ます。マリーは妊娠体質で次々と出産をしましたが、ついに10人目を出産してドクターストップになったのだとか。マリーに政治的権力は無く、宮廷人の中での影響力は無かったようですね。

一方、大きな影響力を持っていたのは、ルイ15世の愛人であるポンパドール婦人で、政治に無関心なルイ15世に代わって政治を行っていました。

ポンパドール婦人

ポンパドールというのはフランスの地名で、ルイ15世の愛人になったときに与えられた名前です。

本当の名前は、ジャンヌ・アントワネット・ポワソン。

彼女は銀行員の娘で平民出身。しかし、非常に裕福な家庭であったために、貴族以上の教育を受けて育ちます。音楽、絵画、ダンス、演劇はどれも一流の講師からプロ並みのレッスンを受けました。成績は非常に優秀であったことに加え、成長を重ねるごとに、美貌を兼ね備えていきます。

19歳の時にデティオールと結婚し、デティオール夫人となりました。超一流のサロンに出入りするようになり、多くの文化人と出会います。

ルイ15世と出会ったのは王太子の結婚を祝う舞踏会 。このとき、ジャンヌの美貌がルイ15世の目に留まり、正式な愛人=公妾となり、ポンパドール公爵婦人となります。

ポンパドール婦人はベルサイユへ移り住み、ルイ15世の夜のお相手はもちろん、政治への関心が薄いルイ15世に代わって政治を行いました。

ちなみに、妻をルイ15世に奪われた夫デティオールは、フランス一の寝取られ夫と呼ばれました。デティオールは妻を生涯許さなかったようで、ポンパドール婦人がルイ15世とベッドを共にしなくなった後も復縁を拒み続けました。デティオールは、ポンパドール婦人が亡くなった後、愛人の一人と再婚し、田舎で平穏に暮らしたそうです。

ポンパドール婦人の最も大きな功績は外交です。

フランスはオーストリアと仲が悪く、100年以上も戦争を繰り返していました。こんな両国が手を組むことは奇跡的なのですが、ポンパドール婦人によって協力体制が結ばれます。これは外交革命と呼ばれています。

当時、ヨーロッパではプロイセンという新興国が力を付けてきておりました。プロイセンの国王はフリードリヒ2世。

フリードリヒ2世は女性を軽蔑するということで非常に有名でした。

オーストリアの王様カール6世の子供には男の子がおらず、次の王を女性のマリア・テレジアにするとしていました。その際、プロイセンを含め隣国も承諾しておりましたが、カール6世の死後、フリードリヒ2世は女性の帝位など認めないと言ってきたのです。そして、ハプスブルク家の領地であったシュレジエン地方を占領してきたのです。

これに激怒したマリア・テレジアは長年仲の悪かったフランスとロシアを味方に付けようと動きます。

このときのロシアのトップは女帝エリザヴェータ、そしてフランスの事実上のトップはポンパドール婦人だったのです。

エリザヴェータもポンパドール婦人もフリードリヒ2世の女性軽蔑の姿勢を快くは思っておらず、見事3国は協力体制となり、プロイセン包囲網をしきます。

これを3枚のペチコート作戦と言います。ペチコートとは女性がスカートが透けるのを防いだり、形を整えたりするのに履く下着の一種です。

作戦は見事に成功し、フリードリヒ2世を二度も自殺直前にまで追い込み、プロイセンを滅ぼす寸前まで行きました。しかし、エリザヴェータの急死により、プロイセンを支持していたピョートルがロシア皇帝に即位し、プロイセンと講和したため、プロイセンは立て直しました。

財政的に厳しくなったオーストリアはシュレジエン地方奪還を諦め、プロイセンと講和しました。

ポンパドール婦人もその後亡くなり、フランスとオーストリアの関係は揺らぎますが、ルイ16世とマリア・テレジアの子供である、マリーアントワネットが結婚し、関係は保たれることとなりました。

オーストリアのマリア・テレジア、ロシアのエリザヴェータは正式なトップでありますが、ポンパドール婦人は王の愛妾に過ぎません。ポンパドール婦人が当時のフランス政治をどれだけ牛耳っていたのかが如実に分かるのではないでしょうか。

また、ポンパドール婦人は国の金を湯水のように使い、数々の建築物を建てました。現大統領邸宅であるエリゼ宮もまた、ポンパドール婦人によって建てられたものです。

デュバリー婦人

ポンパドール婦人が亡くなった後、ルイ15世の新しい愛妾となったのがデュバリー婦人です。本名はマリ・ジャンヌ・ベキュー。ポンパドール婦人とは一転、貧しい家庭に生まれました。

母は駆け落ちしていなくなったため、叔母に預けられて育ちます。7歳の時に再婚した母の元に戻った際、新しい父から可愛がられ、修道院で教育を受けることが出来ました。

修道院での教育を終えると、お金持ちの家の家政婦として働き始めます。ジャンヌの美貌は開かれるサロンの参加者を魅了するわけですが、ジャンヌは尻軽女だったらしく、いとも簡単に体を許していたようです。これが主人の知るところとなり、解雇されてしまいました。

その後、洋服店で裁縫の仕事をすることとなりますが、ここでもジャンヌの美貌は評判になり、お金持ちの男達を引き寄せます。

ジャンヌは多くの愛人を持つことになりますが、その一人にジャン・デュバリー子爵がいました。

子爵とは貴族の爵位の1つ。大公>公爵>侯爵>伯爵>子爵>男爵という順番。要するに貴族と言うことです。

デュバリー子爵は、ジャンヌをオシャレな館に住まわせ、貴婦人のような生活を送らせます。しかし、デュバリー子爵は悪いやつで、ジャンヌに子爵が連れてきた男と夜の相手をさせていました。

お相手は家柄のよい貴族や学者など。要するに、顔立ちの良いジャンヌを高級娼婦にして、風俗業で儲けていたと言うことですね。

実際のところ、ジャンヌ本人の貞操観念はあまり無く、良い暮らしが出来て本人は幸せだったようです。

娼婦業のお相手の一人にフランス元帥のリシュリュー公爵がおり、彼を通じてルイ15世と会うこととなります。

ルイ15世は愛するポンパドール婦人を失い、悲しみに暮れていましたが、リシュリュー公爵からジャンヌを紹介されたところ、天真爛漫で愛嬌があり、顔立ちの良いジャンヌをたいそう気に入りました。

しかし、ジャンヌは貧乏な平民育ち。ルイ15世の愛妾となるには身分が低すぎます。そこで、デュバリー子爵の弟と結婚させ、デュバリー夫人となって身分を貴族とした後、ルイ15世の公妾となりました。

ベルサイユ宮殿へ移り住むことになったデュ・バリー夫人ですが、そこにいたのが、マリー・アントワネットです。

マリー・アントワネットは娼婦や愛人が大嫌いだった母マリア・テレジアの影響を受け、デュバリー婦人を全く受け入れる事は出来ません。二人は激しく対立することとなります。

マリー・アントワネットは次の王妃。一方、デュバリー夫人はただの愛人に過ぎません。身分は圧倒的にマリー・アントワネットの方が上です。下の身分のものから上の身分のものに話しかけてはいけないというルールのため、マリー・アントワネットから話しかけられなければ、二人は会話することがありません。

デュバリー夫人がマリー・アントワネットのもとに近づいてきても、あからさまに遠ざかるなど・・・。まぁ、現代でもありそうなイジメですね。デュバリー夫人の精神的ダメージはさぞ大きかったことでしょう。

このイジメは、マリー・アントワネットが1月1日の新年あいさつの日に「今日もベルサイユにはたくさん人がいますね」的なことを話しかけて終了します。このとき、デュバリー夫人は身が震えるほど嬉しかったのだとか。

この一言の裏側には国王や大使など多くの人が動いていたようですが。

デュバリー婦人とマリー・アントワネットやベルサイユ宮殿については、有名な漫画「ベルサイユのばら」で結構忠実に書かれているようなのです。

私自身は読んだことが無いのですが、フランスに行ってとても興味が湧きました。ベルサイユ宮殿に行く前に読んでいたら、もっと楽しめたかもしれません!

ルイ15世が天然痘で倒れると、デュ・バリー夫人は宮廷を追放されパリ郊外に住むようになります。その後、イギリスやフランスの貴族の愛人となり過ごしました。

フランス革命が勃発した際にはイギリスに亡命していました。とても安全な場所に居たにも関わらず、デュバリー婦人は何故か突如パリに戻ります。

そこで、革命軍に捕らえられギロチンにかけられて処刑されてしまします。なぜ、急にパリに戻ったのかは謎なのですが、ベルサイユ宮殿に置いていた宝石を持ってくるためとか言われているようです。

ルイ16世


有名なフランス革命はルイ16世が在位しているときに起きました。

ルイ16世よりも、その王妃であるマリー・アントワネットの方が有名かも知れませんね。

当時のフランスは絶対王政。フランス革命は王権絶対を正し、市民が自由で平等な社会を手に入れるために始まりました。

最終的には、ルイ16世、マリー・アントワネットの処刑を皮切りに多くの貴族・聖職者が処刑されたわけですが、革命と言われる程大きな事件になる予定では無かったようです。

そもそもなぜ絶対王権が良くなかったのかというと、上流階級のみが贅沢な暮らしをし、市民ばかりが不遇な生活を送るから。

当時のフランスは「アンシャン・レジーム」と呼ばれるカースト制のように身分が分かれていました。

地位が高い順に、第一身分の聖職者、第二身分の貴族、そして第三身分の市民や農民と続きます。聖職者と貴族は特権階級。税金を払っていなかったんですね。

当時のフランスは、ルイ14世やルイ15世が戦争を繰り返したつけが回ってきて、経済的に困窮していました。そこに、ラキ火山の噴火が起きた事による日照不足が重なり、農作物の大凶作を引き起こします。

ルイ16世は特権階級にも課税しようと奮闘しますが、特権階級からは猛反発をくらい失敗に終わります。

そこで、市民はベルサイユ宮殿に集まり、国民議会の発足を宣言しました。王もこれを認めました。一方、納得のいかない貴族・聖職者はこの国民議会を武力で潰そうとパリに軍隊を集結させます。

危機感と不満が爆発した市民はついに行動を起こし、パリのバスティーユ牢獄を襲撃しました。これが、フランス革命の始まりです。

バスティーユ牢獄襲撃を契機に農民は領主を襲って財産を奪い始めます。 ここで、国民議会は階級を廃止し、自由と平等、人民主権、言論の自由など現在の憲法の礎ともなるフランス人権宣言を発表しました 。

しかし、ルイ14世はこの宣言を認めませんでした。

ベルサイユ行進


農作物の大凶作によるパンの価格高騰により、市民の家計を直撃している中、王族は裕福な暮らしをしているわけですから、市民は当然怒ります。そこに、フランス人権宣言が認められなかったわけですから、市民の怒りは爆発しました。

マリー・アントワネットはこのとき、「パンが無ければお菓子を食べれば良いのに」との名言を残しています。嫌みでもなんでも無く、王族の暮らしはそれくらい俗世とかけ離れたものであったと言うことですね。

パリの女性市民は「パンをよこせ!」と叫びながらベルサイユ宮殿に行進します。一部が暴徒化し、宮殿になだれ込んで金品を奪い、王を拘束してパリに連行しました。

これ以降、ルイ16世、マリー・アントワネットとその子供たちはパリ市民の監視下、チェルリー宮に住むこととなりました。ルイ16世はフランス人権宣言を認め、絶対王政が終わりを迎えます。

チェルリー宮


ちなみに、チェルリー宮はカトリーヌ・ド・メディシスによって建てられました。ただ、このチェルリー宮には赤い服を着た亡霊が出ると恐れ、ほとんど住まわれなかったようです。

この赤い服を着た亡霊ですが、実は、チェルリー宮に出入りしていたお肉屋さんなのだとか。お肉屋さんなので当然、毎日、お肉を届けるために宮殿に出入りする訳ですが、カトリーヌは宮殿の秘密を知りすぎたとして暗殺を指示しました。このお肉屋さんが赤い服を着ていたようです。気味悪がってその後も誰も住まなくなっていました。 そこに軟禁されるわけです。

絶対王政が廃止され、民主主義の道を歩き始めたフランス。めでたしめでたしで終われば良いのですが、ある事件をきっかけに一気に激しさを増していきます。

ヴァレンヌ事件


ベルサイユ行進から二年後、チェルリー宮に軟禁状態であった王は、マリー・アントワネットにオーストリアのハプスブルク家、すなわちマリー・アントワネットの実家に逃亡し、助けを求めようとそそのかされます。

実際に逃亡計画が進行するわけですが、さすがマリー・アントワネットと言うべきでしょう。馬車を新調すると言い出し、逃亡計画は大幅にずれ込みます。手引きしてくれる人も引き上げてしまいました。

ただでさえグダグダな逃亡計画ですが、逃亡中もピクニックをしたりと完全にお遊び気分。すぐに見つかり、パリに引き戻されます。

これが笑い話では済まされなかったのです。王は国民を見捨て、他国に助けを求めている、すなわち国民の敵だと見なされたのです。

市民はチェルリー宮を襲い、国王一家をタンプル塔に幽閉しました。その後、男性普通選挙により国民公会が成立すると、王政が廃止され、第一共和政が成立しました。

これによって、ルイ16世はルイ・カペーという一般人になりました。

共和政府は裁判によってルイ14世の死刑を決定し、1793年1月21日、コンコルド広場でルイ14世の公開処刑が行われました。

ルイ14世の処刑後、マリー・アントワネットは当時牢獄として利用されていたコンシェルジュリーに身柄を移され、2ヶ月半を過ごしました。

そして、10月6日、コンシェルジュリーから馬車の荷台に乗せられ、民衆の見世物にされながらコンコルド広場へ向かい、ギロチンによる公開処刑が行われたのです。

このとき、デュバリー婦人も同時に公開処刑されたのですが、2人の姿は対照的だったようです。

デュバリー婦人は「殺さないでくれ」とバタバタと暴れ命乞いをしていたのに対し、マリー・アントワネットは亡くなる直前まで威厳を失わなかったようです。

コンコルド広場へ到着し、馬車の荷台から下ろされる際、先導者の足を踏んでしまいますが、「ごめんあそばせ」と言ったそうです。

まもなく処刑される運命でありながら、それだけの心の余裕があるのは、ハプスブルク家という名家出身、育ちの違いなのかもしれません。肝が据わっていますよね。

ちなみに、残された2人の子供ですが、長男のルイ17世は一般市民が後見人となりますが、彼らから虐待され、10歳で亡くなってしまします。

長女のマリー・テレーズは生涯、革命軍を恨み、天寿を全うし、ブルボン家復興のために奮闘しました。

ルイ16世、マリー・アントワネットの処刑を皮切りに、国民公会は革命裁判所を作り、弁護人や承認無しの革命裁判を行い、多くの反対派の人々を死刑に処していきました。

これが恐怖政治。フランス語でTererurといい、テロの語源となっています。

革命が行き過ぎれば反対派が生まれ、反対派が実権を握ればその反対派が暗躍する。当時のフランス情勢はとても不安定で、混沌としていました。そんな中、登場したのが皇帝ナポレオンです。

ナポレオンは総統政府を倒し、混乱を収拾して軍事独裁政権を樹立することでフランス革命を終わらせることで、ナポレオンの時代に突入していきます。

と、ここまでがベルサイユ宮殿にまつわるお話でした!

参考になったでしょうか?

ブログの方も宜しくお願いします(^^)

関連記事

  1. 旅行記

    新潟旅行part.1~星峠の棚田に行ってきました~

    土日を利用して新潟の百名城スタンプラリー、そして全国一宮神社の御朱印…

  2. 旅行記

    フランス旅行2日目。パリ市内観光

    今日からフランス観光の本番。まずは1日パリ市内の観光です。観…

  3. 旅行記

    集めるのは楽しい!【百名城スタンプラリー】と【御朱印】と【ダムカード】

    今日は私の趣味の一つである収集について書きたいと思います。何かを集めて…

  4. 旅行記

    登山用テントの購入

    テント泊を可能にするために50Lのザックを手にいれたので、次に欲しく…

  5. 旅行記

    フランス旅行3日目 モン・サン・ミッシェル

    エミトラベル社へ出発モン・サン・ミッシェルへのツアー…

  6. 旅行記

    1泊2日の奈良弾丸旅行1日目~興福寺と二月堂のお水取り~

    週末、1泊2日で奈良県へ弾丸旅行してきました。9時56分東京…

コメント

  1. この記事へのコメントはありません。

  1. この記事へのトラックバックはありません。

  1. 登録されている記事はございません。
2021年1月
 123
45678910
11121314151617
18192021222324
25262728293031
  1. ブログ開設

    WordPressのURLを変えようとしたら、ログインできなくなりました。
  2. 旅行記

    フランス旅行4日目 モン・サン・ミッシェル2日目
  3. 通販・おみやげ・便利グッズ

    日本でも買える!海外の激甘ココアの決定版 スイスミスココア
  4. ブログ開設

    WordPressのブログにバリューコマースアフィリエイトの広告を載せてみる
  5. 旅行記

    京都観光3日目~醍醐寺~
PAGE TOP